創価学会の今後について

私は創価学会のメンバーです。

新聞や大白の体験談を見て思うのですが、いまだに正社員志向が強いということ。つまり遅れているのです。もはや安全地帯ではなくなった正社員という枠に入ったことが実証といえるのか。組織の中心者は団塊世代ですが、そういう世代の価値観に浸食されていると感じます。

若い世代には、これまでとは違った価値観、生き方が必要なのに、就職して、結婚して、子供をもって、それで幸せといえるのです、といった昭和の幻影をいまだに追いかけているようです。みんなと同じであることが幸福の基準。日本的です。

組織が時代に適応できていない。

私の地区の座談会は、私以外は皆、高齢者、もしくは団塊となっています。会合も高齢者に合わせていて、はっきり言ってつまらない。

それでも、体験談に関しては得るところが大きいのは、やはり信仰の素晴らしさかなと思いますが。

早く世代交代して、組織の新陳代謝を良くしたほうがいいです。

私は国際部の会合に参加していますが、あの開かれた雰囲気はとても好きです。意見を自由に言える。成果を押し付けられることもないし、気楽に参加できます。

そういう在り方が広がっていくことを願っています。

青年がいない組織は、明らかにやり方が古いです。組織に意見することが悪とみなされるのは、とても息苦しい。上に逆らわず、おとなしく従うことがよしとされるのは日本人の悪い癖。組織が大きくなると、官僚的になってしまうのかな。

しかし、国家権力に逆らった創価学会の歴史を考えれば、その在り方はやはり変えていきたいですね。

人間関係。この美しく、醜きもの。

生きていくうえで大きな影響を与えるもの。やはりそれは、人付き合い。

支えともなり、足枷ともなる。

他人と完全に分かり合うことは、やはり無理でしょう。

肉体がある限り。

肉体は、個が存在するうえで絶対的な境界線となる。

他の存在と分かり合いたい。一つになりたい。

だけれど、その願いは打ち砕かれる。だから、適度な距離を探って、お互いにとって最適な関係を築こうと努力する。

探り合い、探り合い。

 

めんどくせーー!

 

なぜそんなことをしてまで私たちは生きていかなければならないのか。

死という解放が訪れるまでこんなことを続けていかなければならないのか。

なんて考えながら、今日も生きるのです。

生きるということは、なんとも悩ましい命題だ。